~古今東西の映画レビューを若干辛口で~
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 今となっては、観るべきものもない作品かもしれない。と一応言っておく。 キューブリックの作品は、「2001年宇宙の旅」もそうだが、こだわりに溢れている。それは当時の撮影技術としての映像美の極地であったかもしれない。この作品においても、ロウソクの光だけで撮影されたシーンなどが有名であるが、それは撮影機器、撮影技術の進歩に伴い、彼でなくても撮れるものとなってしまっている。 それはちょうど、デジカメの進歩によって誰もがカメラマンを気取れるのと同じように。
バリー=リンドンという人物の生涯を淡々と描き、ねっとりとではなく、第三者の視点で語るやや突き放した距離感。 それでいて、3時間という長尺を忘れさせる引き込み。 そもそも30年前の作品がこれだけ普通に観られてしまうこと自体がすばらしい。 PR カルト映画です。もう題名からお分かりですよね。
でも、いい味出してマス。 偉い人へのあいさつが「ク~!」だったり、マッチが「カツェ」といって宝物だったり、なんだかそういった変なところが自分の変なところを刺激するというか。 旧ソ連の体制批判を暗に含んだとされるこの作品であるけれど、そういった重いものを考えるよりも、ロシア語の響きとちりばめられたエスプリ?と音楽を純粋に楽しむほうがいいかな。
「ちょっと変わった映画を観てきちゃった」なんて思いながら歩いて帰るのも◎。 まぁ観てみて。 大きな感動や見せ場はない。
現代の法治国家における裁判制度は「疑わしきは罰せず」という命題を矛盾とともに抱えている。 社会にとっては疑わしきも含めて罰することが前進につながるが、個人にとってはそうではないからだ。 この作品では、あくまでも個人の視点でこの命題を捉えている。提出される証拠は本当に信頼できるのか。信頼できない証拠によって有罪とすることを自分自身は許せるのか。 「有罪」か「無罪」かではなく、「有罪」か「有罪とは言いきれない」かをこの十二人は決めていった。 英語での判決は、「guilty」「not guilty」である。そこに、裁判というものの本質を見ることができる。
日本でも陪審員(裁判員)制度が導入される。 個人の強さが疑わしい日本においてこの制度を導入することは時期尚早ではないかとも思うが、もし自分がその責を負うことになったとしたらもう一度この作品を観てから法廷に向かいたいと思う。
人間の根本的な欲求は留まるところを知らない。自分が一番になりたがり、そのためには他人の生やましてや幸福など知ったことではない。 不幸ではないと言えるくらいの生活は、現代日本の誰もが簡単に手に入れることができる。 しかし、他の国ではそれが当たり前のことではない。そこから抜けだすために、地道に働く人はもちろんたくさんいる。けれど、自分の内なる欲求が大きければ、そんな悠長なことは言っていられない。それが社会の中で正しいとか、善だとか、そんなものは簡単に飲み込まれてしまうものなのだ。
確かに、「映画」としても完成度は高い。入り方とつなげ方、時間軸の使い方、カメラアングル、音楽、どれを取っても文句のつけようのない作品だから。 それでも、それ以上に観て感じるもの、「差し込まれた」感がぐっとくる。
ちなみにこれは実話である。 |
カテゴリー
ブログ内検索
フリーエリア
フリーエリア
フリーエリア
プロフィール
HN:
のりくん
性別:
男性
最新コメント
最新トラックバック
カウンター
|